和敬塾 新南寮ブログ

2019年4月より和敬塾南寮、乾寮、巽寮の3寮が合併します。3寮の個性を融合させた新南寮での日常を発信していきます。

自己紹介させていただきます。

こんにちは。新南寮一年のk藤と申します。今回は私のブログ記事初担当ということで、私の和敬に対する考えについてお話ししたいと思います。

 

和敬と言えば、寮であるにも関わらず、体育祭などのイベントがたくさんあり、先輩との上下関係など大変なことばかりじゃないかと思う方がたくさんいらっしゃると思います。しかし、何故、私が和敬を選んだのかについて話し、和敬のいいところを紹介できれば幸いです。

 

私は現在、某大学で神学を学んでおります。そして、私が上京してまで神学を学ぶ理由、和敬をあえて選んだ理由には高校時代の出来事が関係しているのです。

 

それは、留学したことによる価値観の変化です。私は高校一年次にデンマークへ長期留学しました。私は幼い頃からレゴブロックと呼ばれるデンマーク発祥のおもちゃが好きだったため、その発祥の地であるデンマークへ行き、本場のレゴを見ることは私の長らくの夢だったのです。

そして高校一年の時にそれが留学という形で叶えてもらうことができ、私の父と母には感謝しております。しかし、留学は輝かしい出来事が強調される一方で、つらいことはあまり取り上げらないのが事実です。

元々、私は内向的な性格で、人と出かけたりするよりも、自分で何かを黙々と作業するほうが好きな方でした。そのためその性格が悪く働き、現地ではコミュニケーションを十分に取れないと判断され、早期帰国されそうになってしまいました。

その時、私は他人の目から私はどう映るのか、私はどのような人間なのかについて真剣に考え、自分自身と向き合うことになりました。この時、行動から私は変えていき、今まで話してこなかった同じ留学生、学校の友達と関わるように行動しました。そうすることで私は早期帰国を間逃れ、ホストファミリーを転々とし、デンマークいろんな土地をめぐることとなりましたが、コロナの流行により全留学生帰国の命令が出るまでの7か月間を完走しきれたのです。

 

 

 

この時に体験したいろんな感情を忘れることは生涯ないでしょう。上記で述べた通り、私は高校生の時にそのような体験をしたことから、「人が成長するには他者との関わりが必要なんだ」という思想を抱くようになりました。しかし、当時の高校生であった私に他者とどのようにかかわっていけばよいか適切な回答を持っているわけでもなく、悩むだけで悶々とした日々を送っていました。

その時、カトリック系の高校に通っていた私は、キリスト教の授業などを受けていくうちにキリスト教を学ぶことで、私の生き方のヒントを得られるのではないかと考えるようになっていったのでした。そのため、現在の私にとって留学という体験は、私を神学、そして和敬へと導く一つの重要な体験であると位置付けています。

 

新訳聖書では次のような例え話が登場します

 

             善いサマリア人のたとえ

 

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

 

エスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

エスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

エスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

ルカによる福音書10章25~37節

 

ここに出てくる『ある人』はユダヤ人で、サマリア人と敵対関係にあったと言われています。多数派であるユダヤ人は、神の教えを受けたものは我々だと主張しており、同じ主張をする少数派のサマリア人と敵対関係にあったのです。

しかし、彼は自らを顧みず、敵であるはずのユダヤ人を助けました。

その前にきたラビ人、祭司には血に触れてはいけないという規則を守るためだったとか、色々な理由があったかもしれません。そしてそれらは全て自分も守るための行動だったと言えるでしょう。

 

しかし、イエスは初めの方で『永遠のいのち』を手に入れるには隣人を自分のように愛しなさい。と言っています。ならば、これら全ての自己防衛は、実は逆に自分を守ることにならない、破滅へと向かう道だったと言えます。

 

私はこの箇所を見たとき当時の自分を思い出しました。。私にとって必要だったことは、人と出会い、心から接することだったのではないか、出会った責任から逃げず向き合う事でイエスが説いた「永遠のいのち」にあずかろうとすることだったのではないかと今になって思います。これまで私の体験を振り返って考察し、「人は関わり合いの中で生きる」という意見を主張したと思います。人は決して一人で生きることはありません。他者の中に自分自身を位置付け、自己の存在を確認する生き物だからです。「人と心から接すること」それはイエスの説いた「永遠のいのち」を得る一つの方法なのではないでしょうか。

 

 

 

 和敬においても同じことが言えると思います。今の時代は個人主義、自己責任といって他者を容赦なく切り捨てることが多いと思います。

今の時代、それは自分のせいだから、自分の行動の結果だからといって切り離すという考えが主流になってきてる気がします。しかし、それは本当に正しいのでしょうか。他人だからって自分は関係ないのでしょうか。

人と出会うということには、『出会った事に対する責任』があると思います。茶道には『一期一会』という言葉が存在します。千利休が言ったとされる言葉ですが、『この出会いは二度と巡ってこない一度きりのものだから、今できる最高のおもてなしをする』 というような意味があるそうです。

日本では、この一度しか関係がないからいいや、とか、これからの関係性がないから適当で。と言った考えが多いと思います。それは正しいかもしれません。しかしそれは本当は正しくなくて、真理の道へと続く道ではないと思います。なら、私たちは今出会うすべての人々に心を尽くして接するべきなのでしょう。そのように行動した時、私たちは真の意味で生き生きとできるのかもしれません。

和敬では古いながらも、そのような昔のおせっかいとも取れる人間関係の文化が根ざしています。

もちろん、いいところだけではありません。そう言ったところも含めて、わたしたちと共に『真に命を得る道は何か。』、『人生とは何か』、『人間関係とは?』について考えて、己を成長させてみませんか?大丈夫、きっとできるはずです。